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「10年後はないかもしれない」大友良英、60代半ばで到達したギター&ターンテーブルの自在境-後編- (1/3)
インタビュー:細田成嗣 (2023.12.27 TOKION 掲載)

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35年以上にわたって唯一無二のキャリアを築いてきた音楽家・大友良英インタヴュー後編。ほぼ前人未踏だったと言っていい実験的ターンテーブル奏者としての活動を中心に話を訊く。

ギターもターンテーブルも今まさに最高のプレイができる——前編のインタビューで大友良英はそのような手応えを語っていた。『Solo Works 1 Guitar and Turntable』(2023年)には、そうしたいわば自在境に到達した彼のインプロヴァイザーとしての姿がありありと収められている。リリース元は昨年スペシャルビッグバンドの『Stone Stone Stone』を出した新レーベルLittle Stone Recordsだ。同レーベルからは今後も大友のソロ・ワークスがリリースされる予定で、『Solo Works 2』はライヴ盤を、『Solo Works 3』ではクリスチャン・マークレーをテーマに構想中だという。

前後編に分けたインタビューの後編では、ほとんど前人未踏だったと言っていい実験的ターンテーブル奏者としての活動を中心に話を訊いた。即興でのコラージュを出発点としつつ、カンフー映画を手本に(!)スピードを追い求め、さらにレコードを使わないエクストリームなターンテーブル演奏からインスタレーションへと繋がっていくなど、その足跡は実にユニークだ。そして多くのリスナーがおそらく意外に感じるかもしれないが、大友は自身について「フリー・インプロヴィゼーションの文脈の人間ではないかもしれない」とも語る——。

 

クリスチャン・マークレーという衝撃

——後編ではターンテーブルを中心にお伺いできればと思います。ターンテーブル奏者としてのキャリアが本格的にスタートしたのは、高柳昌行さんのもとを離れてからですよね?

大友良英(以下、大友):そうですね。でも実際は高柳さんのところにいた頃から演奏自体はしていました。ライヴは禁止されていたから、人前では数えるぐらいしかやっていなくて、ほとんどは宅録だけれども。だから本格的に演奏活動を始めたという意味では、高柳さんのところを飛び出した後ですね。

——ターンテーブルではないものの、子どもの頃からテープレコーダーを用いた音楽制作はされていたとか。

大友:中学、高校の頃かな、テープレコーダーでコラージュを作ってました。ターンテーブルも最初はコラージュとしてやりたくて、ヒップホップとは全く別の文脈で始めたんです。

——コラージュというのは、いわゆる具体音楽(ミュジーク・コンクレート)のようなものですか?

大友:そう、ピエール・シェフェール的な具体音楽を即興でやりたいと思ってた。でもターンテーブルだけを使うようになったのは、やっぱりクリスチャン・マークレーと出会ってからです。それまではカセットテープやオープンリールテープをターンテーブルと一緒に使っていたけど、クリスチャンを見て「ターンテーブルだけの方がカッコいいな」と思った。それも音楽を聴く前、最初はクリスチャンの写真だけを見たんですよね。

——あの有名な、ターンテーブルをギターのように肩から下げて弾いている「フォノギター」の写真ですか?

大友:いや、それじゃなくて、ターンテーブルを4台並べて演奏してる写真でした。それを見て純粋にカッコいいなと思った。だから想像上のクリスチャン・マークレーみたいなものが僕にとってターンテーブル演奏の1つの出発点になってるんです。音を初めて聴いたのは副島輝人さんのドキュメンタリー映画でした。「メールス・ジャズ・フェスティバル1984」を撮影した8ミリフィルムの映像。その後、ジョン・ゾーンのレコードでもクリスチャンの音を聴いて、やっぱりカッコいいなと魅了されていった。1984、85年頃。その頃はもう完全にターンテーブルだけで演奏するようになっていたかな。

——1986年にクリスチャン・マークレーが初来日した際も観に行かれていますよね?

大友:もちろん。東京公演全部観てる。というか、来日時クリスチャンのアシスタントをやっていましたから。副島輝人さんの企画だったけど、前の年に副島さんから「デヴィッド・モスを日本に呼ぼうと思っていて、もう1人呼ぶ予算があるんだけど、誰がいい?」って相談を受けて。それで「絶対にクリスチャン・マークレーにしてください! オレ、手伝いますから!」って懇願した(笑)。だから僕、手伝いで毎日ずっとくっついて回っていたんだよ。で、やっぱり実際にクリスチャンを観たらかなわないと思いましたね。とにかくカッコよかった。スピード感といい音源のチョイスといい、もうひれ伏すしかないぐらいすごかった。


「即興でコラージュすることが圧倒的に新しかった」

——ターンテーブル演奏には、やはりギター演奏とは異なるおもしろさがありましたか?

大友:そもそも全く別の技術が必要ですからね。ターンテーブル演奏は当時、作曲でコラージュするのとは違って即興でコラージュができるというのが、僕にとっては圧倒的に新しかったかな。録音された素材をその場でどんどんコラージュしていく。当時はまだちゃんとしたサンプラーもなかったから、即興でのコラージュはとにかく新しく見えた。可能性も感じた。その前にやっていたカセットテープのコラージュの先に行ける気がしたというか。

当時、高柳昌行さんがカセットテープのコラージュに取り組んでいて、実はあの機材は僕が作っていたんです。だからそういう種類のコラージュはずっとやっていたけど、スピード感という点で、カセットはどうしても作曲作品みたいになるんですよね。それよりもターンテーブルの方が即興的でカッコよくて。その意味でも人生で最も打ちのめされたのは、やっぱりクリスチャン・マークレーのライヴを観た瞬間かな。

今だから言うけど、高柳さんのところを辞めた大きなきっかけも、クリスチャン・マークレーと出会ったことだと思う。もう、すぐにでもライヴをやりたくて、でも高柳さんのところにいるとライヴをやらせてもらえない。それまでも隠れてやっていたけど、クリスチャンと出会ってからは、もうライヴをやりたいってしかならなくて、それが雑誌に載ってバレちゃって、大喧嘩になったんです。それで高柳さんのもとを飛び出したから、今考えるとクリスチャンがきっかけだよ。

——1980年代にジャズ寄りの現場で実験的ターンテーブル演奏のライヴをすることはとても珍しかったですよね。というより大友さんしかいなかったと思うのですが、周囲のミュージシャンからはどう受け止められていたのでしょうか?

大友:いやー、孤独だったよ。いわゆるジャズの人達の大半は僕のことなんか認めてくれなかったし。ただ、その時におもしろがってくれた人達もいて、それがたとえば広瀬淳二さんや黒田京子さん、加藤英樹や植村昌弘、勝井祐二や菊地成孔だった。広瀬さんや黒田さんは少しだけ先輩で多少は知られていたけど、加藤、植村、勝井、菊地あたりはまだ無名の青年だった。1987年に黒田さんのバンドに参加してからジャズ・ミュージシャン達との付き合いも生まれたけど、当時はジャズがやりたかったわけではないからね。たまたまジャズの現場が最初だっただけで、その後はホッピー神山やレックとやるようになってロックの現場にも行き出して、そしたらロックの方が遥かにオープンだと当時は感じました。とにかくおもしろい音を出したら何でもオッケーみたいな。そうそう、今思い出したけど、ホッピー神山とかレックとロックをやるときはギターも弾いてたな。

だから、やっぱり高柳さんなんですよね。「ロックは高柳さんとは関係ない」という言い訳が僕の中にあったんだと思う。ロックの現場ではノイズ・ギターもやっていたけど、普通にギターを刻むこともあった。ホッピー神山とかレックのバンドだと気楽なんですよ。高柳さんが関係ないから。ジャズの現場に行く時だよね、ギターを持って行けなかったのは。ターンテーブルでライヴをやっていたのも、僕の中では「ギターじゃないからライヴやってもいいでしょ」という言い訳があった(笑)。そのくらい高柳さんの存在が大きくのしかかっていたんだと思います。でも確かに当時ターンテーブルは珍しかったです。ヒップホップ以外ではそもそもターンテーブルを持ち込む人なんかいないし、僕の場合はテクニクスじゃなくて自作のターンテーブルを使ってましたからね。そんな人は日本では誰もいなかった。

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