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「10年後はないかもしれない」大友良英、60代半ばで到達したギター&ターンテーブルの自在境-後編- (2/3)
インタビュー:細田成嗣 (2023.12.27 TOKION 掲載)

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カンフー映画で培ったターンテーブルの速度

——本来ターンテーブルは音楽を聴くための装置で、演奏するために作られた楽器ではないですよね。セッションの際にギターのように即座に反応することは難しいと思うのですが。

大友:これは自慢みたいになってしまうけど、ターンテーブルでも割と即座に反応できたんです。だからいろいろなところに呼んでもらえたのだと思う。1年間ぐらいヒカシューのゲスト・メンバーになったこともありました。あれは1990年だったかな。

——ターンテーブルの演奏技術に関しては、ヒップホップを参照することもありましたか?

大友:いや、ヒップホップの影響は全く受けなかった。スクラッチもやらないし。そうではなくて、コラージュをひたすら速くやる感じかな。だから全くの独学ですね。もちろんクリスチャン・マークレーの影響はあるけど、その前からやっているので。ピエール・シェフェールみたいなことをライヴでやりたい、というのが出発点で、その後クリスチャンを知って「これだ!」と思った。

最初はテープレコーダーとかを使っていたけど、ライヴでテープを使う人は、高柳さんもそうだし、ボブ・オスタータグとか、そういう人達の音楽ももちろんチェックしてました。でも当時はテープだと作曲っぽくなる感じがしたのと、ゆっくり変化する感じのものが多くて、やっぱりカットアップみたいに速くしたかったんです。そこにはジョン・ゾーンの音楽の影響も大きかったし、ハイナー・ゲッベルスとアルフレート・ハルトの「Peking-Oper」みたいなコラージュと生演奏のカットアップを自分でやるのには、ターンテーブルはぴったりの楽器だと思ったんです。瞬間的にカットアップできるし、速いビートに合わせて変化させられる。で、独学だったけど、当時はとにかく速くやりたかったので、香港のカンフー映画に合わせてターンテーブル演奏の練習をしてました(笑)。

——速度を求めていたと。

大友:そう。スピード。誰よりも速くなりたかった……なんか阿部薫みたいな言い方になってるけど(笑)。もしかしたら、どこかで高校生の頃に憧れた阿部薫の影響もあるのかもしれません。とにかくスピードを追い求めていました。とにかくクリスチャンの演奏が物凄すぎて、とてもかなわないって思ったんで、どうにか自分流の方法でなんとかしなくちゃって、それで当時は香港のカンフー映画を参考にしてたんです。サモ・ハン・キンポーとかユン・ピョウが出演している映画のVHSビデオを繰り返し観ながら、彼等の動きとぴったり合うようにターンテーブルから音を出す。バカっぽいですよね。いや〜バカだったんです。でも1990年代中頃まではずっとそのやり方で演奏してましたね。今考えるとそういうターンテーブルの使い方が、ギターをU字金具で演奏する技術にも繋がっているのかなと思います。どちらもスピードと強いアクセントを出すためでしたから。


サンプリング・ウイルス計画〜幻のアルバム『Dear Derek』

——1990年代の大友さんは「サンプリング・ウイルス計画」を提唱されていて、1993年に『The Night before the Death of the Sampling Virus(サンプリング・ウイルス死滅前夜)』というアルバムもリリースされています。この計画はターンテーブルによるコラージュの延長線上にある試みだったのでしょうか?

大友:そのアルバムについてはターンテーブル演奏ではなくて、それこそピエール・シェフェールのように、主にテープの切り貼りで作りました。ターンテーブルも使いはしたけど、あくまでも作曲作品。あとはCDのマスタリングの時にデジタルの音声素材を繋げたぐらいで。

「サンプリング・ウイルス計画」をやり始めたのは、「サンプリング」という考え方が当時新しく出てきたというのが大きい。それまでコラージュとしか言えなかったものが「サンプリング」という言い方も出てきたことでコラージュとは異なる音源再利用の可能性を感じたんです。一方で「コンピュータ・ウイルス」なるものも出てきて、著作権の問題も含め、この辺のことをアイデンティティのはっきりしない「ウイルス」をキーワードにして一緒くたにして考えていこうと思ったんです。ただ、コンピュータ・ウイルスといっても、当時はまだ素朴なコンピュータしかないし、今みたいにインターネットで即座に世界中と接続できるようなネットワークもない時代だから、そうした環境下で頭の中だけで考えてやっていたところが大きいかな。

——とはいえ、「サンプリング・ウイルスの種が自分の手を離れて増殖/変化しながら広がっていく」という、他者との関係性の中で音楽を捉える考え方それ自体は、その後のオーケストラの作り方やアジアン・ミーティング・フェスティバルにおける交流の在り方、またはインスタレーションで装置同士が相互に反応し合う状態などに引き継がれていると思います。「サンプリング・ウイルス計画」が「アンサンブルズ」などに名前を変えながら、大友さんの思想としては一貫していると言いますか。

大友:確かに、それは一貫しているのかもしれません。ただ単に個人の創作だけで何かが成立しているのではないという考え方が背景にはあるんだと思います。もっとさまざまな外的な要素が個人の意図とは別に絡み合っているというのを前提にする考え方です。ただ、1990年代は今みたいにネットワーク環境が整備されていたわけではないから、やっぱり脳内ネットワークだったとは思う。

——1990年代にはアナログレコードではなくCDを操作するCDJも登場しましたが、CDJに乗り換えずターンテーブルの演奏を今も続けているのはなぜですか?

大友:最初はすごいハマったんですよ。一時期はCDJだけで作品も作っていて、結局リリースしなかったんだけど、『Dear Derek』というデレク・ベイリーに捧げたアルバムも作ってた。ベイリーの演奏をサンプリングした音素材をCDJでコラージュしたもので、ベイリー本人から許可も取っていたんだけど、出す直前になってやっぱりつまらないと感じて、リリースをやめました。

でもCDJはすぐ飽きてしまったかなあ。CDJだけでなくサンプラーもです。多分サンプリングに飽きたのだと思う。コンピュータやサンプラーがどんどん進歩して、そうするとCDJはすごく不自由なサンプラーでしかないと感じるようになっていった。デジタル・データのサンプリングはどんどん発展して、この先もっと簡単に大容量でできるようになっていくはず……そう考えたらなんでだか興味を失ってしまいました。やっぱりターンテーブルの方が不完全で、かつ自由に演奏しやすいって感じちゃったんです。パッと手に取って針を落としてギャーッと音を出せないと嫌で。デジタルは遅いし、同じ音しか出ないって。ラップトップも少しやったけど、やっぱり遅くて続きませんでした。もちろんその後、そうした機材で、素晴らしいことをやる人達がたくさん出てきたのを見て、自分は完全にオールド・ジェネレーションでアナログ人間なんだなって思いましたが(笑)。


レコードを使わないターンテーブル演奏から展示作品へ

——ギターとの共通点を考えると、大友さんはターンテーブルでもフィードバック・ノイズを発生させるアプローチを取っていますよね。そうした手法は1990年代からすでに試みていたのでしょうか?

大友:やってました。1990年代中頃にはもうフィードバックを使っていたかな。ターンテーブルのフィードバックは、ギターと比べると、よりコントロールができない。そこが逆におもしろかったです。もちろん、続けているとある程度コントロールできるようになってしまうのだけど、だからどんどんINCAPACITANTSのようなノイズ・ミュージックに近づいていったと言える気がする。

——大友さんのターンテーブル演奏には2つの側面があると思います。1つは既存の音楽をサンプリング/コラージュする側面。もう1つは必ずしもレコードを使わずに、ターンテーブルそれ自体の即物的なノイズを発生させる側面です。特に後者のような、レコードを使わないというある種エクストリームなターンテーブル演奏に乗り出したのはなぜですか?

大友:やっぱりマルタン・テトロのライヴを観たのが大きかったかなあ。1997年、ちょうどGround-Zeroで『Consume Red』を作っていて、そろそろカットアップは止めようかなと思っていた時期でした。それ以前からマルタンのことはクリスチャン・マークレーを介して知っていて、アルバムも聴いていたんだけど、彼はもともと美術畑出身で、コラージュをやるターンテーブル奏者だったんですよね。けれど1997年にイタリア・ボローニャのアンジェリカ・フェスティバルで観た時は、サンプラー奏者のディアン・ラブロッスとデュオで、ほとんどレコードを使っていなくて。ターンテーブルのノイズがメインだった。ステージにいるのにほぼ演奏していなくて、ひたすらギュ〜とかノイズを出してるの(笑)。でもそれがカッコよかった。潔さに衝撃を受けたかな。あの時はGround-Zeroのメンバーと観ていたけど、おもしろがっていたのは僕とSachiko Mだけでした。

——翌1998年にはSachiko MさんとのFilamentで最初のアルバムをリリースしています。

大友:そうだね。だから、1回すべてご破算にしてそっちの方向性に行こうと思ったのがあの時期でした。もうコラージュではないな、と。それはマルタンの影響も大きかったと思う。その後すぐにマルタンとはデュオをやるようになったから、ステージ上でお互いにレコードを使わない、コラージュではないターンテーブルの演奏が増えていって、どんどんお互いにいろんな手数を習得していった。すごく相互影響はあったと思う。

——ターンテーブルは自動式の音響装置としても使えますよね。大友さんの最初のインスタレーション作品《without records》(2005年)もポータブル・レコードプレーヤーを使用したものでしたが、それはターンテーブル演奏の延長線上にある試みだったのでしょうか?

大友:そう、最初の《without records》に関してはハッキリとそうでした。レコードを使わないターンテーブルの扱い方というのがそのまま展示に移行していった。だけど重要なのは、その後の『ENSEMBLES』展(2008年)の時に、いろんな人が自作したターンテーブルとも一緒にやるようになっていったことで、個人の創作ではないものがどんどん入ってきた。そこが個人のターンテーブル演奏との大きな違いかな。

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