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「10年後はないかもしれない」大友良英、60代半ばで到達したギター&ターンテーブルの自在境-後編- (3/3)
インタビュー:細田成嗣 (2023.12.27 TOKION 掲載)

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「勝手に動くモーターを相手にするか、それとも固定した振動する弦を相手にするか」

——1990年代終わりにコラージュではない方向性へと転換しましたが、その後、再びコラージュ的なアプローチもするようになって、今回の『Solo Works 1 Guitar and Turntable』にもそうしたターンテーブル演奏が収録されています。サンプリング/コラージュに再び取り組むようになったのはなぜでしたか?

大友:率直に、そこまでストイックにならなくても、時々ならいいかなと思いました。それと、昔はコラージュをメインにしていたけど、今はメインでフォーカスしているわけではなくて、レコードに入ってる音を使っているというぐらいなんです。1990年代はコラージュの音が何の意味を持っていて、それがどうカットアップされるか、ということが重要なテーマだったけど、今はレコードに録音された音の質感として扱っている程度。少しだけ意味合いがあるとしたら、実は阿部薫のレコードを使っていることかな。それはギターで「Lonely Woman」を弾くことと似ているのかもしれない。

——今ではギターもターンテーブルも使用されていますが、どちらの方が使いやすいですか?

大友:いや、どっちもどっちだよ。両方とも自分のメイン楽器ですからね。どっちがより使いやすいとかはない。ただ、この音楽だったらギターの方が合うだろうとか、この相手だったらターンテーブルだろうとか、自分で思うことはあるけれど。 例えば坂本龍一さんのピアノと一緒に演奏する時はギターがいいかなとか。実現しなかったけど、最後の頃、坂本さんがギターを弾いて、僕がピアノを弾くのもアリだなと思ったこともありました。

——そういえば、大友さんはピアノ演奏のライヴ盤『Piano Solo』(2013年)もリリースしていますね。

大友:ピアノは自分の中ではギターの延長線上なんです。弦がたくさんあるギターだと思ってる。だからピアノ演奏という感覚ではないんですよね。極端な多弦ギターを扱っているというのが近い。

——大友さんにとってターンテーブルを演奏することのおもしろさは、どのようなところにあると感じていますか?

大友:ターンテーブルは演奏者の意志とは別のものとして、しかも不完全な、いろいろと隙だらけの装置としてあるから、そこがおもしろい。デジタルの装置だと隙がないんですよね。例えばCDだとCDで音を出す以外の使い方がほとんどない。もちろん刀根康尚さんのようにCDに粘着テープを貼って誤作動を起こすということはできるけど、ターンテーブルだといくらでも違う使い方ができる。要するにモーターとマイク(カートリッジ)だからね。
ギターは弦とマイクだけど、ターンテーブルはモーターとマイク。どっちもアンプから増幅された音が出てくるところは共通していて、マイクとアンプである以上はフィードバックも引き起こすことができる。勝手に動くモーターを相手にするか、それとも固定した振動する弦を相手にするかの違いだけとも言える。でも重要なのは、どっちもマイクがあって、アンプから音が出るってことかな。そこが共通しているから、ギターにしてもターンテーブルにしても、やっていると音が似てきちゃうんですよ。


「フリー・インプロヴィゼーションよりもノイズ・ミュージックの文脈に近いかもしれない」

——『Solo Works 1 Guitar and Turntable』は、ライヴ盤ではなくスタジオ盤ということもあり、短いトラックが多数収録されているところが1つの特徴になっています。各トラックには番号が振ってありますが、これはテイク数でしょうか?

大友:そうです。番号をつけてトラックを選ぶやり方は、実はデレク・ベイリーの『Solo Guitar』(1971年)に倣いました。今回、僕の中で唯一意識した他の人のアルバムが『Solo Guitar』かな。あれのA面みたいな感じにしたいと、どこかで思っていたような気がする。そんなに長尺じゃなくて、いろんな即興演奏が収録されているけど、曲ごとにコンセプトが違うわけでもない、みたいな。

——『Solo Guitar』は初めて聴いた人に大きな衝撃をもたらすアルバムだと思うのですが、大友さんとしては、今聴き返しても新鮮に感じることはありますか?

大友:正直に言えば、何十年経っても同じような新鮮さで聴けるわけではないけど、ただ、いつ聴いてもすごいなとは思うんですよね。よくこんなところに行ったな、と。やっぱりズバ抜けている。もちろんデレク・ベイリーは『Solo Guitar』以降も素晴らしいアルバムをたくさん出しているけど、最初のソロ作でいきなりあれを出したわけですから。

——デレク・ベイリーに限らず、フリー・インプロヴィゼーションの録音作品を、例えば1960〜70年代に出すことと、2020年代の今出すことでは、意味も受け取られ方も大きく違うと思うんです。その辺りは大友さんはどのように考えているのでしょうか?

大友:そりゃ、全然違うと思う。だって今フリー・インプロヴィゼーションをやることは、それだけでは冒険でも挑戦でもないからね。どこにでも転がっているありふれたアプローチでしかない。だから今回の『Solo Works 1 Guitar and Turntable』も、そういったどこにでも転がっているものの1つとして作ったところはあります。

——とはいえ、フリー・インプロヴィゼーションというスタイルを録音したかった、というわけでもないですよね?

大友:はい、違います。即興といってもフリー・インプロヴィゼーション以外にもいろいろあって、そういうふうにいろいろあるという大前提の上で作りましたからね。ひょっとしたら僕がやっている音楽はフリー・インプロヴィゼーションの文脈よりも、どちらかというとノイズ・ミュージックの文脈の方に近いかもしれないとも思う時もあります。ヨーロッパのフリー・インプロヴァイザー達と一緒に演奏すると、自分は違う文脈で演奏してるなってよく思います。影響はものすごく受けたし、一緒に演奏するのは本当に楽しいけど、でも、何か違う言語を話しているのかもって。

——フリー・インプロヴィゼーションかノイズ・ミュージックか、そこの文脈の違いというのは、具体的にはどういうことでしょうか?

大友:大きくは前後の音楽史の捉え方の違いなんじゃないかな。うまくは言えないけど、フリー・インプロヴィゼーションの場合は、初期は「即興でなければならない」という考え方があった上で今がある。けれどノイズは「ノイズでなければならない」という思想ではないと思うんです。もうノイズをやった時点でどん詰まりだから、何をやってもいい、としかならない、そんなふうに感じてます。少し抽象的な話になってしまうけど、その上で僕は即興演奏をやっているところがあります。その意味ではとてもパーソナルな音楽なんじゃないかな。10代の頃に阿部薫のライヴやデレク・ベイリーのフリー・インプロヴィゼーションを聴いて衝撃を受け、その後、高柳さんとの出会いがあり、クリスチャン・マークレーやジョン・ゾーンに衝撃を受け、同時にノイズや即興演奏をやる同世代の人達とたくさん出会い、さらには音遊びの会なんかとの活動を経て、半世紀経った人間が作っている極めて個人的な音楽なんだなと思うんです。

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