インタビュー「3.11後の大友良英——そうじゃないところを示す音楽への試み」【4/7】
聞き手・構成:伊藤順之介
出典:立教大学比較文明学会紀要『境界を超えて――比較文明学の現在』23(2023)
フェアに、イコールに見ていく
大友 あともうひとつは、田中克彦って言語学者の本に考え方はとても影響受けてて。まあ武満さんもそうだけど、差別のない考え方を音楽の現場でもしていくにはどうしたらいいだろうってなんか やっぱりどっかで考えてたんだろうね。
─正当な言語があるわけではない、というような。
大友 そうそう。ついつい、それ正しい日本語じゃないから直せって普通に言うけど、そもそも、っていう。言語って何、っていう。 それは音楽も同じだと思っていて、プロフェッショナルだけがやるのは音楽ではないっていう。プロフェッショナルの音楽もあるけども、音楽は元々誰でもできるものだったんじゃないのっていうあたりから、ここから先はすごく自己流の考え方かもしれないけど、音楽からっていうよりも、むしろそういう、いろんな人たちの書いて いる思想とか哲学とか……。とはいえ、オレあんまり勉強できる人間じゃないから、すっげえ難しい本読んでもさっぱり意味がわかんない。(ジャック・)デリダとか読んでもなんだか全然意味がわかんない。(ジャック・)アタリとかもそうなんだけど。なんとなくしかわかんなくて、やっぱ自分で現場で考えてたかな。
─でも、大友さんの思っている、正当な音楽とか正当な言語とか、そういうものはないっていう考え方は、80年代から今にかけてのいわゆる現代思想と、かなり共通しているような気はするんですけど。
大友 そうだね。たぶんそういうのに影響を受けてて、割とそういう中でも文章的にわかりやすかったのは鶴見俊輔さんとかなので。 だからすごい難しい文章とかは全然わかんないんだけど、鶴見さんの文章とか、あと田中克彦さんとかかな。いわゆるポストモダンと 呼ばれてた当時のバリバリの若手の人たちのも読んだんだけど、やっぱね、わかるようなわからないようなだったかな。まあ流行りだったからね。一生懸命読んでわかったふりしてたけど、ポストモダ ン的な考え方よりももうちょっと上の世代の鶴見さんとか大きかったかな。『限界芸術論』とかやっぱ面白いと思う。それから、今言った田中克彦さんの言語論。あれも言語論からしたらすごい古典って いうか古い考え方なのかもしれないけど、ただ、物をフェアに、イコールに見ていくって考え方の基礎を僕はあれで学んだような気が していて。僕自身がすごく音楽のアスリート主義というか、エリート主義を信じてた人間なので。高柳さんのところにいる時代に。もう、訓練して、誰よりも優れたものを作っていって、前衛的なものを作ってくって発想で最初音楽をやってたので。それに対して、いやいや、違うなってどんどん思うようになっていった。でも一方でそういう音楽の面白さもよく知ってるから、両方やっちゃダメなの、ってだんだん思うようになっていった。これどっちも面白いじゃん、って言っちゃダメなの、って悩み。で、若造の頃はそれで悩んだけど、だんだん若造じゃなくなってくると、どっちもいいじゃんって言えるなと思って。 でもこれは、なかなか伝わらない。ヨーロッパじゃ全然伝わらな い。オレがあまちゃんもやって、震災のこういう活動もやって、ノイズもやってるっていう意味あいは、たぶん向こうの人には全く伝わってないと思う。なんなのこの人は、っていうくらいにしか思われてないと思う。いいじゃん盆踊りやっても、なんでやっちゃいけないのって素朴に思うんだけど。やっぱり芸術信仰がある人はやっちゃいけないっていうか、それないでしょって思う人たちもいるってことだと思うんだけど。もうそういうのも変わってきたのかな。 よくわかんないけど。
ほかの人をコントロールはできない
─わたしの話になっちゃうんですけど、大学入学直後、グリークラブに入ったんです。でも、すぐに辞めたんですね。立教グリークラブ、立グリっていうんですけど。有名で。やっぱり、その中にあ るエリート主義というか、立派な指揮者の下に響きをみんなで統一していくこと、それがすごい嫌になってしまったんですよね。どうしてひとつの響きに合わせていくのか……っていうのが。その気持ちよさっていうのはあるし、それはそれで素晴らしい音楽だとも思うんです。でも、そういうやり方は、ファシズムとつながっているようなことに思えてしまって。まあポピュリズムでも、統一されてく気持ちよさには、いろいろあると思うんですけど。でもそれは怖いっていうか、自分の声が全体の中に溶けていく怖さがあって、すぐ辞めたんです。それで思ったのが、オーケストラFUKUSHIMA! とか音遊びの会って、統一感がないですよね。
大友 失礼だなあ。でも、ないない。
─統一されてるんじゃなくて、全部が拡散してるようだなと思っ て。
大友 な~んかバラバラしてるんだよ。あれしかできないんだよ。 アッハッハッハッハッハ。
─でもそこがたぶん、すごくいいところなのかな、って思います。
大友 あれを聴いてると、天国だなあって思っちゃうの。だから 例えばグリークラブとか、上手いところの聴くとびっくりするよ。 感心するんだけど、入りたいって思わないんだよね。
─自分がやってみると、そうですね。
大友 いやいや、すごいの聴くとやっぱり感動するよ。それは。
─それこそ武満さんの作曲したものとかも歌ってたんですけどね。 なので、大友さんのカバーは自分にとって驚きでした。あれは、みんなで声を合わせて統一していくっていうようなものではなくて。 武満さんはそういうのも作っていたのかな、と。合唱の中で、それぞれが自由に歌えるようなもの、というか。
大友 そういうふうに作ろうとしてた。でもそこまでいってないような気がする。まだあの時代は、合唱とかでああやって歌うこと自体が、自由への扉に響いてたんだと思う。戦争の時代から考えると、歌うってこと自体がね。だけどもう時代違うから。だから、な んだろうね、例えばオーケストラFUKUSHIMA!でもこうやって手を振った瞬間、バンッ!って音が統一するんだけど、グリークラブのような統一では全くなくて、バラバラしてるもいいとこで。あれが気持ちいい……気持ちいいというか、これでいいんだっていつも思うんだよね。よくああいうワークショップやるときに、最初に 「出た音は全部受け入れるから」って言ってて。それはキレイごとに 聞こえるかもしれないけども、普通音楽はそうじゃないからね。今言ったみたいに、ファシズムみたいにまとめてくっていう方向のほうがどちらかといえば音楽の主流だと思うんだけど。僕はそういうのが怖いかな。
─そういう、集団での即興演奏をやるにあたって、例えばターンテーブルを使った即興演奏、それからノイズミュージックがどういうふうに集団での即興演奏に結びついていくのか、活きていくのか、というのは気になったところですが。そのあたりはいかがでしょうか。
大友 一般の人が入ることでってこと?
─そうですね。アマチュアの人も含めてやるにあたって、即興演奏の方法論とか、ノイズミュージックでやってきたことがなにか活かされたのかな、と。
大友 ああ、そういうことね。まあ活かされただろうね。即興演奏って受け入れてくことだから。起こったことを。修正がきかないじゃない。良かろうが悪かろうが。良いも悪いも受け入れながら次に進んでいくっていうのが即興演奏なので、そのやり方をそのまんま応用してるよね。特に即興演奏の場合、ひとりで演奏すれば自分でコントロールできるけど、誰かと演奏する場合は、ほかの人をコントロールはできないじゃないですか。ほかの人はほかの人。例えばデュオとかトリオとかの場合、そういうときに相手をコントロー ルしようなんてやりながら思ってないんですよ、全く。ただ起こっ た現象の中で自分がどうやったら面白くなるかって。会話と一緒かな、即興的な。だからその経験が僕はすごく長いし人より豊富だと思うので、それはこういう即興とかやるときにすごい活きてると思う。ただ音遊びの会とやったときはもうそれですら太刀打ちできないくらい、謎世界で。面白すぎたね。即興演奏でいく自由さとか広がりなんか、音遊びの会を前にしたらもうちゃっちいもんだと思うぐらい、はあー……っていう。それが本当に面白いけどね。